化粧は世界中の女性が長い年月をかけて発展させてきた歴史があります。日本では書き文字が発展していたため文献も多く残されており、その中に当時のメイクに関する記載もあります。
古文の授業でおなじみの源氏物語の時代、貴族の女性は化粧をしており、眉メイクの道具類は特に「眉引き道具」として毛抜きやハサミ、ブラシ、描くための墨などがそろえてありました。もちろん化粧台など化粧品一式を入れておく箱なども。
また、眉は容姿を表現する重要ポイントだったようで源氏物語の若紫には、のちの紫の上となる幼い紫と源氏の出会いの場面で、紫の眉につて触れられています。幼い紫はメイクをしていませんが、それでも彼女の眉につて触れられているのです。
「面つきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かなと、目とまり給ふ。(顔つきがたいそうかわいらしく、眉のあたりがほんのりと美しく見え、あどけなく(髪を)かき上げた額の様子、髪の生え具合が、たいそうかわいらしいです。)」
江戸時代まで来ると化粧は庶民にも広がり、識字率も上がったため一般の女性が読むための化粧指南書が多く発行されます。いわゆるファッション誌も。
子供を産んだ女性は眉をそり落としましたが、それ以前は眉メイクを工夫して楽しんでいたようです。「都風俗化粧伝」には眉によって顔の印象が変わることが書かれています。眉墨には黒穂菌(くろぼきん)の寄生した真菰(まこも)の根の粉末が最良とされましたが、手軽な代用品として灯心の上に紙をかざして集めた油煙(ゆえん)がよく使われました。
また、「目を小さく見せるメイク」「目を大きく見せるメイク」の仕方が詳しく図解付きで記載されています。大きく見せるメイク法は「まつ毛のあたりに薄く紅をさす」もので現代のアイラインに通じます。
当時は口が小さく見える方が美しく、小さく見えるように紅を塗っていました。
浮世絵にも化粧をする女性の姿はたくさん描かれており、日常の風景であり人気の素材でもあることが分かります。
また化粧は身だしなみとの考えが強く、江戸時代を通じて多くの女性に読まれた女訓物『女重宝記』には、「女と生まれては一日も白粉を塗らず顔に有るべからず」と諭されています。この「メイクは身だしなみ」の考えは現在まで続いており、働くときは濃すぎない化粧をすることが暗黙の了解になっていますね。
校則で化粧が禁止されるのは割と最近の傾向であり、むしろ明治や大正時代は女学生は化粧を奨励されていました。
日本では昔は良妻賢母が女子教育の要で、その中にずっと「化粧は身だしなみ」として含まれていたのです。
女性達が身だしなみとして発展させて来たメイクの延長線上にあるのがアートメイクです。「毎日描くのが面倒」であり、「メイク直しが面倒」だからです。その気持ちの中には「メイクは身だしなみだからやらないわけにはいかない」が基本にあります。アートメイクは「身だしなみを整える」ものと考えているのです。
